考えたフリをしているのはもうやめよう。言葉にすることの大切さ。

自分は、けっこう考えるのが好きで、常に色々考えている人間だと思っていた。

これは他の人と比較してというわけではなく、本を読むのが好きだし、人が書いた文章を読むのが好きで、それについてあれこれ自分だったらどうかとか考えていたつもりだったから。

そして、人に話す機会は無いけれど、持論もあると自負していた。

ただ、あらためて人に話そうと思うと言葉が出ない、論理が破綻している、飛躍している、でお話にならない、と思ったことがあった。

考えるというのは、頭の中であれこれ思いを巡らせている状態のことだと思っていたのだけど、これは今気づくと単に考えているフリをしているに過ぎなかったのかもしれない。

なんとなくのイメージはこんなかんじなんだけど、と考えていてもコミュニケーションをとる際に伝えることができなければ意味が無いに等しい。

人がその他の動物と異なる大きな違いは言葉を持つことだ。

新約聖書ヨハネによる福音書」にもはじめに言葉ありきと書かれていて、言葉は神と共にあり、言葉は神であった。と続く。

人は言葉によって世界を認識している。

言葉がなければ物は存在しない。

存在している物には言葉がある。名前があるということ。

昭和天皇が、世の中に雑草という草はない、どんな植物にも名前がある。あなたが名前を知らないだけです。と言ったという。

ドイツの哲学者ヴィトゲンシュタインも私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する。と言っている。

自分の世界を広げるために、鮮やかにするために言葉を持ちたい。

どうすればいいか。

簡単なことだ。紙でもいい、ブログでもいい、自分の中にもやもやとある感情を言葉にして書き出す。見えている世界をそのまま言葉にして書き出す。

その積み重ね。

だからブログを続けようと思う。