夏の終わりのさみしさを短歌に
このまま君と どこかいきたい
短歌を書いても文字数が全然なくてなんかもったいないなあという気持ち。
せっかくなので余談を
大学の授業はほとんど単位がもらえるレベルの適当さで受けていた中、誰にでもSを与えてくれる教授の授業は別にして、俳句の授業では珍しくSをもらった。
句会と言って、みんなで持ち寄った俳句を誰のかを分からない状態で投票するのだけど、楽しかった。
選ばれる人はいつも選ばれるし、なかなか選ばれない人もいる。
俳句は、五七五の言葉に世界をぎゅっと詰め込むもので、季語がないとダメ(例外はある)なんだけど、季節感や世界観ち人の個性が現れる。
俳句論としては、現実の世界の出来事から起こる心の世界を詠むのが良い俳句とされる。
たとえば松尾芭蕉の
古池や 蛙飛び込む 水の音
という有名な俳句であれば、たしか芭蕉はこれ、実はぽちゃんという水の音しか聞いていない。
古池かもわからないし、ましてや蛙でなくて石が落ちたのかもしれない。ただ、障子越しに、そのぽちゃんという水の音を聞いて、ああ、今は蛙が池に飛び込んだのであろうか、静かな池になあ。と思ったのだ。
そしてそれだけ詠んだ。それ以外はなにも表現せずに。
今だと全然季節感がわからないけど、これは春。冬眠から目覚めた蛙は春の季語。
目の前に少し緩んできた風や静かな風景が広がる俳句だ。
まあ、俳句はそんなこんなだったのだけど、ついでに短歌もすこしかじってみた。
自由。
ただただ自由に五七五七七で詠めばいいだけ!
俵万智さんのサラダ記念日とか好きで
この味が いいねと君が 言ったから 7月6日は サラダ記念日
なんて、とてもいい。
記念日なんて、なんでもいいんだ。何事もない日常の中でささやかな幸せを記念として覚えておく。そんな夫婦生活が素敵だ。
グダグダ思いつくまま書いてしまったけど、俳句とか短歌たのしい
それだけでした。