自分の情報の価値は自分で決められない、人が評価するもの。ブログをどんどん書こう
このブロガーはとにかくなんでも記事に書いてみるべし!ぼくから一つだけ教えることができるのは「自分の情報の価値を自分で決めてはいけない」ということだけです。という記事を読んで思ったことです。
厳密には読んで思ったというよりは、タイトルを見てああー!これだ!!と。
自分の「情報の価値を自分で決めてはいけない」
自分の価値というのは自分では測れないものなのだよなあとブログを書いていたり、茶会を開いたりしていて思ったことでした。
なにか良いことを言わなくてはいけない、素晴らしい情報を発信しなければいけないという思い込み
ブログを始めた当初は、せっかくインターネット様に記事を投稿して世界中の人に見ていただくのであれば、なにか良いことを言わなくてはいけない、素晴らしい情報を発信しなければいけないという思い込みがありました。
しかし、そんなのは思い上がりに過ぎないということはブログを続けていって分かりました。
自分にとって価値があると思った記事が、他の人にとってはそうでもなくて、逆に自分にとってはなにげないことを書いたつもりの記事が、他の人にとっては新しい発見になったり、読んでよかったなあという価値になったりしたからです。
だから、自分が思う価値と、他人が思う価値は異なるので、考えても無駄。
下手な鉄砲でも数撃ちゃ当たる。でもないけど、たくさん記事を書いて、その中で誰かにとって価値のある情報を結果的に届けることができたら、意味があるといえるのではないだろうか。
価値はそれを見る人によって異なる
価値はそれを見る人や、時代や、文化でまったく異なるものだ。
ダイヤモンドだって宝石で希少なものだと言われているからお金持ちはこぞって買うけれど、ダイヤモンドをアフリカの空腹のこどもが見ても、食べられないのだからパンよりも価値の無いものだと扱うだろう。
茶道で言えば、茶碗とか茶器は織田信長が天下統一をすすめていた1400年台には国一つと交換できるほどの価値があったわけです。
遠く離れた高麗や唐の国から海を越えて渡ってきた日本にはない技術を使って焼かれた焼き物。織田信長や千利休は、これを持って茶会をすれば全国の武将から一目置かれるぞ、というようにマーケティングをしていました。
織田信長や千利休のように、価値が高いように見せるやり方も学ぶところはありますが、それを価値が高いと考えたのは当時の武将。茶碗や茶器を巡った周りの人。ただ土をこねくり回して焼いただけの食器なのに(失礼)
そんな感じで、モノそれ自体には価値があるわけではなく、それを見る人使う人が価値を決めるということです。
終わりに
なんでもいいからネタにしてブログを書いてみよう。