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亡くなった人に対してお葬式をしたり、お経を読むのはなんのためか?

 

先日、般若心経の記事を書いた際に、ブックマークのコメントで

 執着しないこと・・・。お経を、お葬式とか法事で読むのは、亡くなった方がこの世に執着しないでちゃんとあの世に行けるよう、言い聞かせてるのかな?何度も繰り返し。。。

 と頂きました。

 

たしかに亡くなった方がこの世に執着しないようにお経をあげたり、お焼香をしたり、たくさんの花を飾ってお見送りをするという側面もあると思います。

 

ただ、僕が出した結論は別のところにあります。

 

持論にすぎないのですが、

 

お葬式は亡くなった人のためではなく、これからもこの世で生きていく人のためにおこなうもの

 

です。

 

何度も繰り返しますが、持論になりますのでよろしくお願いいたします。

 

はたして死者はこの世に未練を残しているのでしょうか?残していたとして、それが生者に分かるものなのでしょうか?

 

例えば人に騙されて罪を被せられて死んでしまった話としては番町皿屋敷のお菊さんが有名ですし、菅原道真はあまりの優秀ぶりに、ライバルに目を付けられて蹴落とされてしまいました。どちらの話も、現世に未練があり、怨霊となり、人々に祟をおこし、恐れられることになりました。そしてどちらにしても、濡れ衣を着せた輩は死んでしまいます。

 

しかしこのお話を作っているのは生きている人、生き残った人なのです。

 

死者は死んでしまったらどこへ行くのでしょうか。あの世でも、地獄や天国でも答えはあると思うのですが、確実な場所は一つあります。それは生前のその人を知っていた人の心のなかです。思い出、や記憶。と言い換えても差し支えありません。心のなかに生き続けます。

 

死んでしまった人に対して、心残りや、気後れする思い、謝りそこねた後悔など、それらの気持ちがあり、それに対して亡くなってしまった人がどう思うかという想像が働いてしまうのです。

 

死んでしまって心残りだったろうに、というのは生きている人の想像です。死人に口なしですから。

 

そして、その想像が肥大化して、囚われてしまった時、身の回りのあらゆることに、つながりを見出してしまうのです。生きている人が死者に執着してしまった時、その死者は生きている人の中で悪霊や、怨霊や、幽霊やそういった形のない存在として現れます。

 

そして、そんな気持ちを祓ってもらうために読むのがお経です。

 

これだけ有り難いお経を唱えたのだから彼も浮かばれるだろう。これだけ毎年思い出してあげているのだから彼女も喜んでいるだろう。

 

そうして、盛大にお葬式を開いたり、お経を読み上げたり、戒名をつけたり、することで、更に具体的に言えば「お金」という価値を支払うことで、安心し、ようやく死者への執着から逃れることができるのです。

 

死者がこの世に執着しないように

 

ではなく

 

これからもこの世で生きていく人が、死者に執着しないように

 

ということです。