人は誰かを傷つけながら生きてしまう。
言葉について、考えていると自然と突き当たってしまう問題だと思っているのだけど、なにかを言葉にするというのは、必ず誰かを傷つけてしまうのだ。
言葉にするというのは、世の中にある本来は言葉で存在しているわけではないものを、無理やり言葉という共通概念にあてはめているということだから。
そして、その言葉に対する人の捉え方も人それぞれで全く異なる。
例えば、矮小化した話にすれば
SNSで「今日はマイちゃん(仮名)とパンケーキ食べてきた!幸せー!いつもありがとう!」ということを投稿したとする。
するとマイちゃんは
「私もあなたとパンケーキを食べに行って幸せだったー」
と思うにちがいない。
でも、
「そうなんだ!あなたが幸せで私も幸せだよ!マイちゃんっていう友達がいてよかったね!」
と思う人もいれば
「私もこの前あなたとパンケーキ食べに行ったのに、幸せって言ってなかったってことは、私といても楽しくないってこと?」
と思う人もいるかもしれない
はたまた、パンケーキを親の仇のように思っている人からしたら
「パンケーキは人間の食べ物じゃない!パンケーキを食べるなんてあなたは人として間違っている!」
と言うかもしれない。いや、普通に考えてないけど。
つまり、一言発するだけで、見ている人の数だけ別の見方があるということ。
また、「@@が好き」と言えば裏を返せば「@@以外は好きじゃない」と捉えることもできるし「今日は楽しかった」と言えば「いつもは楽しくないのか」と捉えることもできる。
また、楽しそうに生きていれば、今日を生きるのにも困っている人がいるのに、楽しそうに生きているのは失礼だと思わないのか!と言う人もいる。
捉え方は人次第だ。
こういう場合、不愉快な気分になりたくて、都合よく誰かの発言をきっかけにしようとしている場合が多い。
そこで結論としては、気にしすぎても仕方ないのだろう。できるだけ語弊のないよう言葉に気をつけることしかできない。
様々な人がいる中で、生きていく以上、避けられない問題だと思っている。
言葉を使ってコミュニケーションを取る世界で生きていくのなら、言葉をできる限り正しく、過不足なくコミュニケーションツールとして使えるようになることは大切だ。