和の心とはなにかについて考えてみた。
茶道をしていると、ひんぱんに耳にしたり口にしたりする、「和の心」や「和の精神」と呼ばれる感覚について、言語化できるように考えてみました。
和の文化とは
和の文化と聞いたときになにをイメージするだろうか。
和菓子、和服、日本庭園、お囃子、神輿、風鈴。そんなものをイメージするかもしれない。それはつまり「和」という言葉に対して「日本的である」「日本独特の文化である」という認識を持っているということだ。
しかし考えてみれば「和」には他にもたくさんの使い方がある。
「人の和」と言えば人と人との繋がりがある状態だし、「平和」とは戦争のない穏やかな状態や、人と人との仲が良い状態を指す。
もしくは敵対していたのを「和解」したり、緊張している気持ちを、「和ませ」たり、というようにも使われる。
また、野菜の「和え物」と言うように「和える」といって、異質なもの同士を混ぜ合わせ、なじませるという意味がある。調えて和えれば「調和」それぞれがなじんでいることを調和がとれていると言う。
これらが意味している共通の意味はなんだろうか。
「異質なものを尊重し、優しく受け入れ、ふさわしいつながりを持つ」というような意味ではないだろうか。
人と人の和
忘れがちではあるが、日本人同士であれど別個の人間の集まりであるため、異質な存在だ。
同じ言語や文化や時間や空間を共有しているかのように思えても、価値観や立場などの違いから、感じるものは人によってはまったく異なる。
以前に台湾に旅行に行って、日本語が通じず、英語やジェスチャーでコミュニケーションをとった時に感じたのは、外国人同士として異なる文化や言語を持っていても意思の疎通ができるというのと同時に、日本人同士で似たような見た目をしていて、外面的には共通しているように思える言語を使用しているからと言って意思の疎通が完全に可能であるとは限らないということだった。
聖徳太子は「17条の憲法」の一番初めに「和を持って貴しとなす」と書いている。「和こそが最も尊い」という意味だ。
そしてこの「和」を考えるために引用したいのが金子みすゞの「みんな違ってみんないい」という詩だ。
つまり、そもそもから「みんな違う」という理解の上で、その「みんな違う」状況からスタートして、それぞれのよいところを引き立て合い、どうにかより良い関係を築き、より良い未来へ向かっていくかという姿勢が「和」には含まれているのではないだろうか。
千利休の和敬清寂の「和」
茶道を大成した千利休の残したとされる言葉に四規七則というルールがあり.そのうちの四規の部分が「和敬清寂(わけいせいじゃく)」となっている。茶道を習う者がまず最初に学ぶ言葉だ。
四文字のうち、一番初めに「和」が来ていることからも何よりも初めに重視すべきは和であると説いていると読み取れる。
茶席で大切なのは、一番は人と人との和、心の和。
おもてなしの精神は、自分とは価値観や趣味嗜好が異なる客を主体的に喜ばせる精神であり、それは異質な他人への理解の姿勢がなければできないことだ。
また、人と物の和も大切だ。人と物との距離であったり、視覚的な感覚に訴える色味であったり、人の五感に影響を与える物と、影響を与えられる人との関係に意識を配らなければならない。
そして、物と物との和。どの物と物の取り合わせ、組み合わせがそれぞれを一番引き立たせることができるか配慮する必要がある。
結論
異なる人や物が同じ空間に集まり、それぞれの良さを引き立て合いながら、より良い空間や時間をつくりあげるという一つの目的を達成するのに必要な姿勢が「和の心」である。
以上!
なんだか自分の中で整理しながらだったので、堅苦しい文章になってしまって反省したいところ。。
論文じゃないんだから、と自己ツッコミをして終わりにします。
ありがとうございました!