人の意見を参考にする時に気にする5つの基準。中立でいるために。
昔にツイッターで糸井重里さんが、私が参考にする意見の条件、としていくつかあげていた。
- よりスキャンダラスでないほう
- より脅かしてないほう
- より正義を語らないほう
- より失礼でないほう
- よりユーモアのあるほう
の5つ。
なるほど、と思ってメモをしていたので考察してみる。
よりスキャンダラスでないほう
スキャンダラスとは、醜い事件的であるとか名誉を汚すような不祥事的であるというような意味で使われる。
必要以上に人を貶めるような言い方や盛り上げ方をしているというのがスキャンダラスであると言えるだろうか。
人はうわさ話や人の失敗話が好きだから、ついそういった話題で盛り上がりがちになってしまう。井戸端会議とか。井戸端会議なんて死語かな。。誰も使ってる人見たことないけど。でも、そういうのってつまり自分たちと自分たち以外の構図にして仲間意識を結束させようとしている気持ちがあるのだろうか。
ニュース番組でも殺人事件とか、汚職事件とか、不倫とか熱愛報道とか、ばかり。
これは報道したほうが世のため人のためだ。これはみんなにはぜひ知っておいてもらいたい!というものはぜひ声を大にして言うべきかもしれないけど、アイドルの熱愛とか、いい歳した男女なんだから自由にしたらいいのにと思う。政治家の問題に関してはある程度は報道して欲しい。
でも、こういうのってだいたい過激に書かれていて、少し嫌気が差す。いかにも大問題であるように言葉を選んだりしていて、事実と異なる場合もあったりする。
たしかに、スキャンダラスである方は選ばないに越したことはない。
より脅かしてない方
脅かしていないかという観点は気にしたことがなかったのだけど、自分向けに言い換えてみると、攻撃的でないか、でしっくり来た。多分そういうことだろう。
最近世の中を賑わせている学生の政治団体。デモの様子を少し見たけど、汚い言葉で罵っていたり、乱暴な態度を取っていたり、主張については今は何も言わないけど、そういう攻撃的な態度をとっているのであれば仮に主張が正しいとしても受け入れられないんじゃないかと思う。
マザーテレサが、私は戦争反対の集会には参加しません、世界平和の集会には参加しますと言ったけど、攻撃的であったりネガティブな言葉を掲げたりしてしまうと、意識がそのネガティブを想像してしまう。
攻撃的な姿勢であるということは相手と敵対関係の構図を作るということ。それでは争いが起きてしまう。
より正義を語らないほう
正義っていいよね。正しさの主張。正義を旗印に、世にはびこる悪に鉄槌を下す。
でも、正義があることによって悪が生まれるとも言える。正義の反対はまた別の正義だって誰かが言っていたけど、人が選ぶ道はすべて自分自身にとっては正義なんじゃないだろうか。絶対的な悪なんてない。
正義を声高らかに歌いあげている人は、きっと自分の主張だけが世の中にとって正しいのだと信じている。でも、決してそんなことはないのだから、多様性の中で、お互いを尊重した意見が大切なんじゃないだろうか。グローバル化、多様化、なんて言ってる時代だしなおさら。
より失礼でない方
いつでも礼を失ってしまったらいけない。相手と同じ土俵でお互いを尊重して妥協できるところを探っていくべき。
相手の主張を聞き入れようとしないとか、暴言を吐くとか、人格を否定するとか、そういう態度をとっている場合が失礼だ。
意見をいう時って、今ある現状からより良い状態にするためにその場があるのであって、きっとその意見を戦わせている相手とは同じコミュニティに所属するものとしてそれ以降もやっていくはずで、軋轢が生まれればそれ以降の関係も破綻しかねない。
部活とか、地域コミュニティの場合だとこういうのは自然と意識するものだけど、政治になるとなかなかむずかしそうだ。
よりユーモラスなほう
笑えるかどうかという基準。これはぼくは一番大切にしたいと思う。
楽しいから笑顔になるのではなく、笑顔だから楽しいと感じる。なんていうのが脳科学であったはずだけど、笑えればわりと許される。
シャルリーエブドの風刺画問題もあったけど、文化や言語、人種など様々な要因で笑えない人もいるどころか、逆なでするようなものはユーモアとは呼べないと思う。
まとめ
この5つの条件はフラットでナチュラルな目線でいるべき時の基準としてはとても理想的だ。
ただ、こういった立ち位置を取れない場合もあるし、この立場からいつも降りないというのは戦わないという選択でもあり、ある意味では何も産まない、非生産的であるとも言えるかもしれない。
自分の頭で考えて、自分の基準で、自分のメリットのために意見を選ぶことも大切。
個人的には笑えるかどうかは一番好き。